V.E.Frankl 自由と責任性ー2018年あたらしい年の初めにー自由に生きようと思う。

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新年あけましておめでとうございます。

2018年。自由に生きていきたいと思います。

自由。自分で決断し、人生からの問いに自分の言動で責任をもって応えていくこと。

フランクルは、人間存在は決断する存在である、と言います。

1年後2019年に大きく決断して進んでいけるように、
2018年の今年1日いちにちを選択・決断して進んでいきたいと思います。

『人間とは何か』春秋社(V・E・フランクル)

P130―131

一般的に妥当し、すべての人を拘束するような人生の使命というものは、実存分析の観点では、本来、ありえないように思われる。

この観点から見れば、人生の使命「というもの一般」、人生の意味「というもの一般」についての問いは意味がないのである。

それは、たとえば記者がチェスの世界チャンピオンににインタビューして、次のようにたずねるようなものである。

「ところで、チャンピオンさん、どういう手が一番よい手なのでしょうか。」

この問いには、一般的に妥当する仕方で答えることはできず、ただ具体的な状況(と個人)との関連においてのみ答えることができるだけである。

もし仮にこのチャンピオンがこの問いを真面目に受け止めたとすれば、彼は次のように答えるほかはなかったであろう。

「チェスの棋士がなすべきことは、自分に可能なことと対戦相手が許すことに応じて、そのつど、最上の手を打とうと努めることなのです。」

ここで、二つのことが強調されねばならないだろう。

第一に、「自分に可能なことに応じて」ーこれは、内的な状況すなわち素質と呼ばれているものを考慮に入れねばならないを意味している。

そして第二に考慮されねばならないのは、この当の棋士が常に「努める」ことができるのは、ある具体的なゲームの状況の中での一番よいてを、すなわちある特定の局面に適した手を、その都度打つのだということである。

というのは、もし彼が最初から絶対に最良の手を打つことを追求していたならば、疑念と葛藤に苦しめられて、少なくとも持ち時間を超えてしまい、ゲームを放棄することになるにちがいないからである。

これとまったく同じようなことが、自分の人生の意味についての問いの前に立たされている人間についても言える。

彼もまた、もしそれが問いとしての意味をもちうるとすれば、その問いを自分の具体的な人格と具体的な状況を顧慮してのみ立てることができるのである。

もし彼が、それを飛び越えて、単に絶対的に最善のことを行おうと「努める」というだけではなく、それを行うことに取りつかれてしまうとすれば、それは間違っているし、病的でもあるだろう。

確かに、彼は最善を志向しなければならない。

そうでなければ多少とも善いことも決して生じないだろう。

けれども、それと同時に、彼は、ただ自分の目的に斬新的に到達することより以上のことは断念しうるのでなければならないのである。

ここで、これまで人生の意味への問いについて述べてきたことの全体から結論を得ようとするとき、われわれは、この問いそのものの根本的な批判に到達する。

それは、人生そのものの意味への問いは無意味である、ということである。

なぜなら、もしその問いが漠然と人生「というもの一般」を指し、具体的な「各々の私の」実存を指していないならば、誤って立てられているからである。

われわれが、世界体験の本来的構造に立ちもどり、それを深く熟考しようとするならば、人生の意味への問いにある種のコペルニクス的転回を与えなければならない。

すなわち、人生それ自身が人間に問いを立てているのである。

人間が問うのではなく、むしろ人間は人生から問われているのであり、人生に答えねばならず、人生に責任を持たねばならないものなのである。

そして、人間が与える答えは、「具体的な人生の問い」に対する具体的な答えでしかありえない。

現存在の責任のうちにその答は生じ、人間は実存そのものにおいて彼固有の問いに対する答えを「遂行する」のである。

P156

人格存在、人格的実存だけは、この任意性から免れている。

人格は、それ自身で完結したもの、それ自身で存在するものであり、分割することも合成することもできないものなのである。

すべての個人が有している本質的で価値的な唯一性とは、まさにその個人が他のすべての人間とは異なっている[他のすべての人間に対して他者である]ということに他ならないからである。

P157

したがって、もし人間の存在が、何らかのより高次の複雑な組織に統合されてしまうならば、その上位の組織のために、必ず人間の尊厳は失われてしまうのである。

このことは、大衆においてもっとも顕著にみられる。

大衆が活動的であり、またその意味では「現実的」であるとしても、決して本当の意味で現実的に働くのではない。

社会学的な法則は、個々人の頭を飛び越えて働くのではなく、個々人を貫いて働く。

しかし仮に、その法則が妥当するとしても、群衆心理学が妥当する程度にしか妥当せず、また平均的タイプというものも心理学的に計算されうる程度にしか妥当しない。

この平均的タイプというものは、それがまさに計算できるという点で、すでに現実の人格ではありえないのである。

大衆の中へ逃避することによって、人間は彼の最も本来的なもの、すなわち責任性を失ってしまう。

だが、人間がそこに置かれ、そこで生まれた共同体から与えられる使命に専心することによって、人間は責任を獲得するのであり、より厳密に言えば、よりいっそうの責任を獲得するのである。

大衆の中へ逃避することは、それゆえ、個人的な責任からの逃避である。

もし誰かが、あたかも単なる全体の部分にすぎず、まずはこの全体こそが本来的なものであるかのように振舞ったなら、すぐさま彼は自分の責任の重みから解放されたような感じをもつことができる。

この責任から逃避しようとする傾向こそが、あらゆる集団主義の動機なのである。

真の共同体は本質的に責任ある人格の共同体であるーそれに対して、単なる大衆は非人格化された存在の集合にすぎないのである。

P160

運命は大地のように人間に属している。

人間は重力によって大地に縛りつけられているが、しかし重力なしには人間は歩くことができない。

われわれは、われわれが立っている大地に対するように、自らの運命に対さなければならない。

すなわち、われわれの自由のための跳躍台にしなければならないのである。

運命のない自由はありえない。

自由とは、運命の対する自由、運命に対して自由に態度を取ることに他ならない。

人間はなるほど自由ではあるが、しかしその自由はいわば真空の中を漂うような自由ではなく、あらゆる制約の只中における自由なのである。

しかし、

この制約こそが、彼の自由の出発点なのである。

自由は制約を前提とし、制約へと差し向けられている。

この制約へと差し向けられているということは、しかし、依存しているということではない。

人間が歩む大地は、その一歩ごとの歩行において常にすでに超えられている。

そして大地は結局、まさにそれが超えられているかぎりにおいてのみ、すなわち踏まれる土台であるかぎりにおいてのみ、人間にとって大地なのである。

もし人間を定義しようとするならば、人間を(生物学的・心理学的・社会学的タイプとして)規定するものからすでに自らを自由にしている存在として定義されねばならないのであろう。

人間とは、それゆえ、これらすべての人間を規定するものを克服したり形成したりすることによって、それらを超越する存在なのである。

とはいえ、人間はまた他方では、それらを自ら受けいれる存在でもあるのである。

このパラドックスは人間の弁証法的性格を示している。

その本質的特徴は、永遠の未完成性と自己課題性である。

人間の現実性は可能性であり、彼の存在は可能存在なのである。

人間は決して自らの事実性の中に埋没してはいない。

もしこう言ってよければ、人間であるとは、事実的にあるのではなく、自由意志的にあることなのである。

人間存在は、自由存在であるがゆえに、責任存在である。

人間存在は、ヤスパースが言うように、彼があるところのものをそのつどまず決心する存在、つまり「決断する存在」である。

P305

「たしかにあれこれ行為することは何らかの意味で良心的ではないとしても、しかし最も良心的でないのは、そもそも行為しないことである。」まったく何も決断せず、ぜんぜん何も決定しない人間は、その何もしないということによって、疑いなく、最も良心に反する決断をしているのである。

P359

ヒレル[パレスチンのユダヤ教のラビ]は、彼の人生を要約し、人生の指針を三つの問いの形で言いあらわしている。

「もしそれを私がしないのなら、いったい誰がそれをするのか。

また、もし私が今それをしないのなら、いったい私はいつそれをするのか。

そして、もし私がそれを自分のためにだけするのなら、私は何なのだろうか。」

V.E.フランクル。はじめの1冊におすすめしたいのは、

『夜と霧』みすず書房  新版の訳は池田香代子(『世界がもし100人の村だったら』の著者)

『それでも人生にイエスという』春秋社 山田邦男・松田美佳訳

どちらもKindle版もあります。

あなたの新年の1冊にいかがでしょうか。

今日の1日1新

malobra(マロブラ)

寝っ転がって本を読むと、本を空中に持ち上げ続けることになります。

長い時間集中して読んでいると腕が重くなります。

そこで寝転がって本を読むための便利な書見台。

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小倉健二(おぐらけんじ) 1965年生まれ53歳。連れ合い(妻)と子ども2人。 労働者の立場で労働問題に関わって30年。 2005年(平成17年)12月から社会保険労務士(社労士)として活動開始。 2007年(平成19年)4月1日特定社会保険労務士付記。 2011年(平成24年)1月30日行政書士試験合格
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