アルツハイマー病など認知症を発症しても精神性は失われない。

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認知症で家族や親しかった人を忘れてしまっても、自分自身がだれなのかわからなくなっても、心身は弱っても、精神性が失われることはない。

こう言われたときに、どう思うでしょうか。

知り合いに認知症をお持ちの方がいないという若い方は何の話か想像もつかないという方もいらっしゃるでしょう。

身近な人や大切な人が認知症を発症して、あなたのことを誰なのか全くわからないという体験をした方はどのような思いをなさいましたでしょうか。

認知症が進行して、自分自身がだれなのかさえわからなくなってしまった方を目の前にしたときにどのような思いをされましたでしょうか。

私自身、とてもお世話になった方が少しずつ認知症がすすみ施設に入所されて、会いに行って話をしていて、同じ話を繰り返し話していたり、ところどころ“あれっ⁉”と思う話が出て驚くことがあっても、健康で元気だし良かったと思っていました。

ところが、しばらく間が空いてから訪ねたときに、私のことが誰だか全くわからなくなっていました。

正直ショックを受けました。

しばらく会いに行かなかったから忘れてしまったのだと、自分のことも責める気持ちもありました。

その後、訪ねて行ったときに、どうやら私のことをセールスマンだと思ったようで、何か売りつけられると警戒していて、必要になったらこちらからお願いしますからというような意味のことを話されたときには、受け止めきれない気持ちでした。

支離滅裂ではあるのですが、話はいろいろとされるので、何かしら思い出してもらえはしないのだろうかという思いがするのですが、それは叶わないようです。

健康で元気でいらっしゃるので、それで十分じゃないかと思うのですが、割り切れない思いがありました。

人間には心身態だけでなく、精神次元も存在している。

精神次元

心・心理

体・身体

人間には3つの次元があるという考えがあります。
ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor E. Frankl)の考えです。

フランクルについて書いた記事はこちら
「V.E.Frankl 自由と責任性ー2018年あたらしい年の初めにー自由に生きようと思う。」

心と体、人間には2つの次元があるというのは、当たり前に聞く話です。

フロイトやアドラーに代表される伝統的な心理学が考えていたのは、この心身態です。

フランクルは人間には心と体という心身態とは別に、精神次元があるという考えです。

例えば、電車の中で座っていたときに、少し離れたところにお年寄りの方が立っているのに気がつきました。

あなたは、下のどちらかだったとします。

ヘトヘトに疲れている(体・身体)
あの民族の人は嫌いだ(心・心理)

そのときに、あなたはどうするかという場合です。

ヘトヘトに疲れている(体・身体)から、気がつかなったフリをして座り続ける。
あの民族の人は嫌いだ(心・心理)から、譲らない。

これは、体・身体や心・心理という心身態からの欲求にしたがった行動(選択)でしょう。

もちろん、いいところを見せたいという気持ちから席を譲るのであれば、心・心理の判断の場合もあるでしょう。

ヘトヘトに疲れている(体・身体)けど、お年寄りの方は立っているのは大変だろうから、席を譲る。

あの民族の人は嫌いだ(心・心理)けど、自分の好き嫌いとは関係なく、大変なお年寄りだから席を譲る。

体(身体)や心(心理)の席を譲りたくないという欲求とは別の次元で判断した、精神次元で判断したと言えるのではないでしょうか。

心理学で主張される、体(身体)や心(心理)の仕組みで人間は決定されているという考えでは説明できない、

体(身体)や心(心理)の欲求を超えて選択する可能性が人間にはある、精神的次元があるのだという考えです。

この精神的次元は、心身態からの欲求に従わざるを得ないのではなく、“良心”がアンテナとなって、心身態からの欲求を超える行動を選択することの可能性として、私たち1人ひとりが自由を持っていることだと言えると思います。

この精神的次元を人間が1人ひとりだれもが持っているとすれば、それは失われることがないものです。

たとえ、高齢になり、体(身体)が衰え、心(心理)が弱くなったとしても、精神性は失われず残ることになります。

自分の精神次元の周りを体(身体)や心(心理)の欲求が取り囲んでいたとすれば、その体が衰え、心が弱くなったときには、残されるのは失われることのない精神次元・精神性です。

体が思うように動かなくなり、認知症が進行し、親しかった人や身近な人のことを思い出せなくても、もっと進行して自分自身が誰なのかわからなくなっても、そして、だからこそ、失われることのない精神次元・精神性がはっきりと現れてくる可能性があるということです。

人間は、重い精神病に罹っても、認知症が進行しても、精神性が失われることはない、心身態(心・体)が衰えて、心身態に支配されていた欲望が消えることで、失われることのない精神性がより存在の中で大きくなっている。

この話をきいて、あー、そうなのか!そういうことだったのか、ととても安心しました。

私のことを誰だかわからなくても、やがて自分自身が誰なのかわからなくなっても、大丈夫なんだ、とホッとしました。

私のことを忘れてしまっていて誰だかわからなくても、心から大切に思っていることを笑顔に表して、自分のことを大切に思っている人と今出会っているのだと伝わることで、その人の精神性と触れ合うことができるのです。

この話は、日本ロゴセラピーゼミナールの第4回ゼミ『充実した老いと死』での話です。

ロゴセラピーとは、ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor E. Frankl)がはじめた「意味」(ギリシア語でロゴス)を軸にする心理治療(セラピー)法のことです。

日本ロゴセラピーゼミナール

アルツハイマー病など認知症を発症しても精神性は失われない。書籍『老いのロゴセラピー』(勝田茅生さん著)、『私は私になっていく』(クリスティーン・ブライデンさん著)

親しい方やご家族・親戚で認知症の方がいらっしゃる方には、何か伝わることが書けましたでしょうか。

ゼミナールで聞いた中で私が理解できたところを書いただけですので、考えが不足していることや根本的に理解が誤っている可能性があると思います。

何か、ひっかかるところがありましたら、以下の2冊を読んでみていただけたらと思います。

何のことやらサッパリ話がわからないという若い方でも、運が良ければいずれ行く道の話ですので、少しでも気になった部分があれば、読んでみてはいかがでしょう。

精神病をお持ちの方、知的障害をお持ちの方、認知症をお持ちの方を支援・ケアしている方にもおすすめできる本だと思います。

ロゴセラピー入門シリーズ第4巻(A5判、148頁、税込定価1,600円)
『老いのロゴセラピー』勝田茅生さん

株式会社システムパブリカ

 フランクルの「過去への楽観主義」と態度価値の考え方がもっとも生きてくるのは、老いと死の問題ではないだろうか。
ー自分の人生で何かうまく行かなかったことや、失敗したことがあったとしても、自分が意味にかなった行動をとらなかったということを認めるだけで、精神的に成長することもあるのです。最期の呼吸の時にさえ、今までの間違いをより価値あるほうへ、意味あるほうへと転換させることができるのです。(本文より)
主要目次
I 老いの意味
1 人生をどのように見るか
2 中年危機とその克服
3 人生の流れ
4 充実した老年の過ごし方
5 介護の意味
II 死の意味
1 死についての否定的な観点
2 死についての肯定的な観点
3 最期の飛翔

Amazon 私は私になっていく

認知症とともに生きる私の物語
ロングセラー『私は誰になっていくの?』を書いてから、クリスティーンは自分がなくなることへの恐怖と取り組み、自己を発見しようとする旅を続けてきた。
認知や感情がはがされていっても、彼女は本当の自分になっていく。”

『日本ロゴセラピスト協会論集第10号』の巻頭言(勝田茅生さん)がとてもわかりやすいのですが、日本ロゴセラピスト協会論集 のページにはまだ販売の案内が出ていませんので、販売開始されましたら、こちらもわかりやすくておススメです。

【編集後記】

今回紹介しました本を読んだ後ですが、冒頭に書いた方に会いに行く機会がありました。

私のことを誰だと思っていてもいいので、大事な人に会えて嬉しいという気持ちが伝わる笑顔をしようとだけ心がけました。

ぎこちない笑顔だったかもしれませんが。

今回は私のことを入居している施設の職員だと思っていらっしゃったようでした。ちょっと嬉しかったです。

昨日の1日1新:上島珈琲店 黒糖入りミルクコーヒー

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小倉 健二 ( 特定社会保険労務士 )東京都 ※相談は新宿近辺にて

小倉健二(おぐらけんじ) 1965年生まれ54歳。連れ合い(妻)と子ども2人。 労働者の立場で労働問題に関わって30年。 2005年(平成17年)12月から社会保険労務士(社労士)として活動開始。 2007年(平成19年)4月1日特定社会保険労務士付記。 2011年(平成24年)1月30日行政書士試験合格
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